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エホバの御国を知らせる「ものみの塔」

通巻LXXXIV 1963年11月1日 第21号 復刊 第13巻 第21号編集

喜んで与える人になりなさい編集

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「あとのことはともかく出来るだけ出してください」。と慈善募金を集める人は言います。しかしこれは神の言葉である聖書の言い方ではありません。聖書は、「喜んで施す人を愛して下さる」と述べています。神はその施しの由来するところ、すなわち与える人の動機、また施しの性質に重きを置かれます。そして喜んで与えるならその量は問題になりません。--コリント後、九ノ七、新口。

 なぜ神は喜んで施す人を愛されるのですか。神が何かに窮乏しておられるからではありません。なぜなら、「丘の上の千々の家畜も」エホバのものだからです。喜んで施す人を神が愛されるのは、喜んで与える事が愛の表われであり、愛を働かせるにひとしい行いだからです。「神は愛である」。喜んで与える人は、自分がわずかでも人に与え得る立場にある事を喜び、人に施し、人を助け得る機会に恵まれたことを感謝します。--詩、五〇ノ一〇。ヨハネ第一、四ノ八、新口。

 しかし今日行なわれる施しの多くが、このように喜んでなされているわけではありません。たとえば、アメリカの経営者団体はキューバにいる「自由の戦士」と引き換えのため、総額五千五百万ドルに上る物資と労役と現金を提供しました。しかしこの寄付を得るため、巧妙な政治力が用いられ、また寄付が課税控除の対象になること、ならびに生産原価ではなく卸し価格で算定される旨約束されました。(そのため実際にはこの寄付によって利益を上げた製薬会社さえ少なくありませんでした)他の会社に対して政治的な圧力はそれほど好ましいものではありませんでした。たとえば、訴訟事件に悩むある商社には、現金と物資による寄付額が露骨に指定されました。これらはあきらかに喜んで与える例ではありません。

 どんな人に対して施しをすべきですか。求める人すべてにですか。できれば助けたいと思われる人全部にですか。それをするには巨万の富を持ったとされるリディアのクロエサスほどの大富豪でなければならないでしょう。私たちが施しをするのは、援助に値する人か困窮している人だ、ということをまず覚えておくべきです。堕落した人間の気持ちとして、とかくおかえしを期待して、富んだ人、窮乏していない人に贈り物をし、本当に貧しい人を見すごしがちです。ごちそうするなら貧しい人々を招け、とイエスが勧めたのはこのためです。--ルカ、一四ノ一二-一四。

 人に与える機会はどこにでもあります。良く注意してその機会をとらえ、しかも喜んで与えなさい。たとえば家族があります。男と女がそれぞれ夫と妻になる以前には、二人共たがいにおくり物をし、たがいを喜ばす機会を多く見つけ、しかも心から喜んでそれをしたはずです。では結婚の後にもそのような情愛を持ち続け、単につとめとして課せられている事だけでなくたがいに与え、たとえ「余分」の努力であってもたがいを喜ばすために貢献し、しかも喜んですべきではあ

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りませんか。同じ事は、親と子、兄弟と姉妹の間柄についても言えます。

 またあなたには、親戚、知人、クリスチャンの仲間などをもてなす機会がありますか。そんな場合にどうやって歓迎の気持を表わせますか。「おしむことなく互にねんごろにもてなせ」。いわば自分に対する特権とも考え、喜んでもてなすなら、それを受ける人も深く感謝するでしょう。『受けるより与えることの方に多くの幸福がある』のではありませんか。--ペテロ前、四ノ九。使行、二〇ノ三五。

 しかし、喜んで与えるという事はただ物質的な事柄にのみ限られるわけではありません。各自の円熟の度合、認識の深さ、感化力、クリスチャンとしてその生活に生み出しているみたまの実などによって多少左右される事があっても、私たちの一人一人が自分の時間、知識、関心、友情そして自分自身を他の人、特にそれを必要とし、それを受けるにふさわしい人々に分け与える機会があります。私たちの心をその人々に向け、その人の身になって考え、思いやりを働かせ、しかも喜んで行いましょう。単なるつとめ、めんどうな義務というような気持ではなく、クリスチャンの群れの監督に助言されているのと同じように、心から熱心に、そう喜んで行いましょう。--ペテロ前、五ノ二。

 だれも完全な人間ではないために、時に間違い、人を怒らせ、また人の仕うちに感情を立てることがあります。人を呼んで釈明を求めることが必要になり、あるいはだれかがわび顔でたずねて来ることがあるかも知れません。ではそんな場合に、きつく、苛酷な態度を取り、さながらシャイロックのごとく一オンスの肉片を最後まで要求しますか。あるいはまた、多少の慈悲をさしのべるとしても、罪を犯した者に特別の恩恵をほどこすかのごとく、不承な態度でいやがる言葉を並べつつしますか。いえ、むしろ、次の助言に注意を払いましょう。「あはれみをなす者は喜びてあはれみをなすべし」。--ロマ、一二ノ八。

 しかしながら、私たちが人に与え得る数々のもののうち最善のものは、神の言葉である聖書に関する知識と理解です。イエスもこの事をはっきり認めていました。イエスは病気をいやし、群衆に食物を与えましたが、それはいずれも、神の御国と永遠の生命に関する彼の宣教に附随していたにすぎません。それゆえ彼が与える物質面の施しのみに興味を抱いた者たちをイエスは強く叱りました。「汝らが我をたずぬるは、しるしを見し故ならでパンを食ひて飽きたる故なり。朽つる糧のためならで永遠の生命にまで至る糧のために働け。これは人の子の汝らに与へんとするものなり」。--ヨハネ、六ノ二六、二七。

 もちろん、配偶者や子供でもひどく甘やかされたものなど、利己心ばかり旺盛で感謝することを知らず、喜んで与えるという私たちの気持を逆に利用するような人々に対しては、それが支払うべき負債では無く贈り物であるという事をはっきりさせ、自らを与えるという私たちの態度にます目を付けても構いません。くりかえし人の憐れみにただ乗ずる者たちは、それ以上の恩恵を受ける価値がありません。「真珠を豚の前に投ぐな」とイエスが言われたのもそのためです。--マタイ、七ノ六。

 しかしながら喜んで与えるということを「硬貨」にたとえれば、裏側があるということも忘れてはなりません。すなわち、与えることを喜びあるものとするために、受ける側のものにもなすべきことがあるのです。どんなものを受ける場合でも、また受ける回数の多少を問わず、贈り物、親切、好意などを当然のものと考えてはなりません。いつでも人の好意を期待してばかりいるのを止め、人から好意を受けるという祝福にあずかるたびごとに誠実な感謝をあらわし、また、いつでも言葉だけで感謝するのを止めましょう。たとえば、だれかの車で一緒にどこかへ行くなら、ガソリン代の一部を受け持って感謝をあらわすこともできます。時には花束、甘い物の一箱などを贈るのも良いでしょう。こうして、あなたも人に与える喜びに与ることになるのです。

 たしかに喜んで与える人は神に愛され、またすべての人に愛されます。ではあなた自身でそのような人になって下さい。それぞれの場にふさわしい感謝の気持ちを表わして、他の人もともに喜んで与える人になるのを励まして下さい。

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     新世界訳にぬけているのはなぜですか

 「欽定訳聖書なら出てくる言葉や節、時には文章全体が新世界訳聖書にないのはなぜだろうか」聖書を愛する人々で、新世界訳聖書を紹介する人にこのような質問を発する人はすくなくありません。しかし、この種の質問は一般に「新約聖書」と呼ばれるクリスチャン・ギリシャ語聖書についてのみ言われていることにまず注意して下さい。

 典型的な例をいくつかあげましょう。次はいずれも欽定訳聖書からの引用ですが、引用句のうち傍らの部分が新世界訳聖書に表われていません。「だれにても理・由・な・く・し・て・己が兄弟を怒る者はさばきにあふべし」。「天より降りしもの、すなはち天・に・い・ま・す・人の子の他には天に昇りし者なし」。「愛は………容・易・に・憤らず」。「こ・の・類・は・祈・り・と・断・食・と・に・由(よ)・ら・ざ・れ・ば・出・で・ぬ・な・り・」。--マタイ、五の二二。ヨハネ、三ノ一三。コリント前、一三ノ四、五。マタイ、一七ノ二、欽定訳。

 このような表現が新世界訳に出て来ないのはなぜですか。簡単に言えば、これらの言葉は、欽定訳のもとになった「標準本」(Received-Text)の中にあっても、新世界訳がもととした「ウェストコット・ホート[:ホ(-??)ルト]本」に出ていないからです。附随的なことながら、これら二つの原本はいずれも昔のギリシャ語で書かれています。

 当然次の疑問が出て来ます。「標準本」に代わって「ウエストコット・ホート本」が使われるようになったのはなぜか。[:不忠のまんまの西暦1,500年以後の中世以降の!!]初期の原本にくらべ後期の[:後期の訳聖書原本文は本文批評で原本に近いので、初期の訳聖書原本文よりは削除が為されていると!!]原本に付加ではなく省略がなされて[:西暦約1,500年以前の原ギリシャ語写本家は省略よりも付加がなされる??と??言葉を付け加える傾向にあったと、だったから後期のギリシャ語原本は長ったらしい文が付く、記憶に??!雑誌の??!「国と力と栄光とは……」って言う主の祈りの頌栄は削除で!!あとホートはアルミニウス主義(アルミニアニズム)だったと!!インターネットで!!本文批評した、西暦約1,500年以降の校合校訂原本は省略削除が目立つと!!]いるのはなぜか。これらの疑問に答を得るのは単に興味深いというだけでなく、私たちの信仰を強めることにもなります。なぜなら、これらの問題を調べることによって、新世界訳聖書の基礎となった原本を作るために、いかに多くの良心的かつ徹底的な努力と技術が払われているかが分かるからです。

 聖書の研究者ならだれでも良く知っているように、原筆記者が書いた聖書はいずれもずっと昔に消失して今は残っていません。二世紀や三世紀など、初期の教会の監督でそれを見たとか手にしたとか言っている者は一人もありませんから、原典は記録され回覧されて間もなく消失したものと思われます。私たちが今日所有しているのは、せいぜい原典の写本ぐらいでしょう。時代の経過と共に、これらを記録するために用いられたギリシャ語そのものが、西ヨーロッパ世界を支配したローマカトリック内で死語となりました。しかし、西暦一四五三年トルコ人の攻撃によるコンスタンチノープル陥落の際、ギリシャ学者とその所有していた写本の多くが四散し、その結果として西欧各地の学問の牙城にギリシャ語が復活しました。

 およそ五十年後、すなわち十六世紀の初め、傑出した能力を持ち、誠実な人とされるスペイン、トレドの大司教クシメネスは国内の有力な学者を自分の所属するアルカラの大学に招き、複語聖書を作らせました。--これは一般を対象とするのでなく、教育を受けた人々のためのものです。こうして出来たのがポリグロット[:グロットとは、行間訳…という意味!!](数か国語対象の聖書)で、「アルカラ」に相当するラテン語にちなんで、「コンプルテンシャン」となずけました。これは六巻に分かれた大きな聖書で、立派な装丁が施され、ヘブル語聖書を四ヵ国語で、クリスチャン・ギリシャ語聖書を二ヵ国語でのせていました。これらの学者た

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ちはバチカンの図書館に接しうる立場にいたと思われますが、クリスチャン・ギリシャ語聖書については、ほんの二、三の写本しか持っておらず、そかもそれらは時代的にはずっと後世のものでした。この聖書が完成したのは一五一四年ですが、法王の承認を得たのは一五二〇年であり、一般に公表されたのは一五二二年でした。

      「標準本」 [:公認(共通?!)本文-テクストゥス・レケ(セ)プトゥス]

 この聖書が完成され、法王の承認を待つ段階にあることを知ったのは、スイス、バーゼルの印刷屋フローベンでした。金もうけの機会とあてこんだ彼は、ラテン語でその著作を何度か出版したことのある、当時ヨーロッパ一流の学者エラスムスに早速手紙を送り、ギリシャ語の「新約聖書」を大急ぎでまとめてくれるように依頼しました。エラスムスは進んでこの仕事を引き受け、六か月で完成しました。事実、大急ぎで仕事をしたエラスムスは、最初の校訂もせずに、福音書の原稿を印刷屋に渡し、必要と思われる変更を校正刷りに書き付けただけでした。急ぎの仕事のために印刷上の誤りも多く、エラスムス自身その序文の中で、「これは編集というよりただ目を通した程度にすぎない」と認めています。第一版は一五一六に出版され、多少の改訂を加えたものは一五一九年、一五二二年、一五二七年、一五三五年に出版されました。

 これら諸版ははなばなしい成功を収め、学問的にもかなりの評判を呼んだようです。その価格も安く、最初の二版だけで三千三百部が印刷されました。それに比べ、六巻に分冊され高価で大判のポリグロット聖書は六百部ほど作られたにすぎません。エラスムスの序文は次のようにも述べています。「私は、一般の人々に聖書を読ませようとせず、また、聖書を大衆の言葉に翻訳しようとせぬ人々に対し、熱烈なる気持ちをもって異議をとなえる者である」。エラスムスは確かに「熱烈なる気持ちをもって異議を唱えた」かも知れませんが、聖書や自分自身の著作を一般大衆の言語に直して、教会の不興を買うという仕事は他の人々に残しておきました。

 ルターはエラスムスの聖書の一五一九年版を使ってドイツ語訳聖書を作り、ティンデール[:ティンダル]は一五二二年版を用いて英語訳聖書を作りました。エラスムスの聖書は他のギリシャ語版聖書のもとにもなりました。たとえば一人の人ステファヌス(スティーブンス[:フランス人の業者で、フランス語では:ロベール・エチエンヌ])により四回の改訂を重ねたギリシャ語聖書があります。過半の歴史家の説によると、ステファヌスが一五五〇年に発表した第三版が英国の標準本[:公認本文??!Textus-Receptus,Received-Text]となり、それが欽定訳聖書のもとにもなりました。しかし他の学者はより強力な証拠をあげて、ベザの手による諸版のうち一五八九年に発表されたものが、英国の標準本になったとしています。 

 テオドール・ベザのものは前述の多くの版に続くものであり、明らかにエラスムス版を基礎にしています。ベザはプロテスタント系の聖書学者であり、福音書と使徒行伝を含むDと、パウロの書簡を集めたD2のいずれも六世紀につくられた二つの重要なクリスチャン・ギリシャ語聖書写本の所有者ですが、ベザ版とエラスムス版との間には一般に予期されるほどの相違はありません。次にあらわれたのはオランダのエルゼビル版であり、これはエラスムス版を版の流れをくむベザ本と実質上かわりがありません。エルゼビル版は七版を重ねましたが、一六三三年に出されたその第二版に次の一文がのせられています。(ラテン語で)「読者諸賢は今や万人が是認するところの原本を入手されたことになるのである」。この版がヨーロッパ大陸部におけるテクスタス・レセプタス[:公認(共通)本文]、すなわち標準本になりました。エルゼビル版がこのような名声を博したのは、多く、その手ごろな大きさと美しい装丁によると思われます。

 これと同じく、実用的な利点を除けば、エラスムス版にはさして推奨すべきところはありません。なぜなら、資料としてエラスムスの手元にあった者は比較的に後代に属する五つの(八つと言う者もある)ギリシャ語写本に過ぎず、しかもそのうち一つとしてクリスチャン・ギリシャ語聖書全巻を収めたものはありません。それらはただ、(1)福音書、(2)使徒行伝と一般書簡(ヤコブからユダまで)、(3)パウロの手紙、(4)黙示録と一般に区分されるギリシャ語聖書の一

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部、また数部分を含んでいたにすぎません。実際には、およそ四千と数えられるギリシャ語聖書のうち、全体を含むものは約五十にすぎません。

 それでエラスムスが用いた黙示録の写本はただ一つだけであり、しかもそれは各所に欠損した箇所があり、彼はその部分についてはラテン語バルゲート訳をギリシャ語に翻訳し直しただけですませました。また彼は、くりかえし自分のギリシャ語版聖書をラテン・バルゲート訳の意味に一致させることに努め、そのため他のいかなるギリシャ語写本にもないような解釈や読み方が二十ばかりもその中にはいりました。そして初めの二版まで、ヨハネ第一書五章七節の言葉ははぶかれていましたが、後に彼はコンテンプルテンシャン・ポリグロット聖書の編集者スタニカなどの圧力を受け、一種の政策上の理由から、このいつわりの一句を挿入しました。

      標準本をしりぞける

およそ二百年の間、ギリシャ語聖書の学者はみなひとしくエラスムスの確立した標準本の配下におかれていました。しかしながら、より古くより正確な写本に接し、標準本とされていたものの欠陥に気付くにつれ、学者たちは各自が見出した事柄を、自分の版の序文や脚注や欄外のかたちで発表するようになりましたが、標準本の本文を変えることまではしませんでした。一七三四年になってもドイツ、チュービンゲンのJ・A・ベングル[:ベンゲル??!]は標準本をそのまま印刷しましたが、それを弁解しつつ「自分自身のテキストを発表できないこと」だけが標準本を用いる理由であると述べました。

 初めて自分の発見を本文そのものの中に組み入れたのは学者グリエスバッハ[:グリースバッハ]でした。それは二巻に分けられ、最初のものは一七九六年に、次の部分は一八〇六年に出されました。しかしグリエスバッハも標準本から完全に離脱したわけではありません。標準本の影響から初めて完全に脱したのはベルリン大学古言語学教授ラフマンでした。一八三一年ラフマンは標準本にとらわれず、彼自身が編集したクリスチャン・ギリシャ語聖書を発表しました。一権威者も述べているように、ラフマンは「古代の証跡に完全に立脚して聖書の原本を確立した人の最初であり、……テクスタス・レセプタスに対する因襲的な畏敬の念を打破するのに大きく貢献」しました。

 ラフマンに続く人としてコンスタンチン・ティッシェンドルフがいます。この人は、クリスチャン・ギリシャ語聖書全巻を収め、ギリシャ語アンシアル字体(古代字体の一種)で書かれた唯一の写本である、有名なシナイティック写本を発見したことでよく知られています。ティッシェンドルフは他のいかなる学者にもまさって、主要なアンシアル写本や他の小さなアンシアル字体写本から得られる数々の資料を活用し、それをもとに校訂を加えることに努力しました。ドイツにおいてティッシェンドルフが聖書の原文批評上貢献的な仕事をしていたのと同じ頃、英国においてはトレグレス[:トレゲレス]が別の貴重な仕事をいくつかしていました。なかでも彼の成功は「比較批判」の理論を実証したことであり、それは、ある原本はそれ以前の原本を忠実に写本したものかもしれないから、記録された日付が必ずしもその原本の作られた日付とはかぎらないという事です。彼の出した版はJ・B・ロザハムによって用いられ、クリスチャン・ギリシャ語聖書のロザハム訳ができました。ティッシェンドルフとトレグレスの労作にそれぞれの成果があったことは、二人が神の霊感による書物としての聖書を擁護するために働いた、強固な戦士であったことを物語っています。

      ウェストコットとホートの原本

 時代的にはそのあとすぐ後に続いた二人の英国の学者、すなわちクリスチャン・ギリシャ語聖書の新世界訳のために用いられた原本の編集者である、B・F・ウエストコットとF・J・ホートについても同じことが言えます。二人は一八五三年に仕事に着手し、二十八年後の一八八一年に完成しましたが、その間定期的に各自の覚え書きを交換する以外にはそれぞれ独立して仕事をしました。ある学者も述べる通り、二人は「それ以前の学者が成し遂げた仕事のうち価値あるもののすべてを集約してい」ました。二つの原本の間になにか相違点があれば、その相違の原因を見定めることのために考えうるすべての要素を考慮し、両者が同等の比重を占める場合なら、そのことを自分の原本の中に明記しました。二人が強調したことは「解読の仕方に幾通りかある場合、最終的な決定に先立つものは資料に対する知識である」ということであり、「ひとたび改悪された語句を信頼できる姿にもどすことはその経歴をたどることによる」ということでした。また二人は聖書写本の系譜を調べることの重要さを指摘し、写本の分類にあたってはグリエスバッハにならいました。さらに二人は「本質的可能性」と「転写上の可能性」ということを取りあげて写本の内面的証拠に対しても相当の考慮を払いました。すなわち、原著者が意図したと思われる事柄と、写本家が誤記しやすい箇所とに対しても考慮を払ったのです。

 二人は、いわゆる「中間」写本を一番のよりどころとしましたが、その中には有名な四世紀の皮紙[:ヴェラム:羊皮紙]写本、バチカン写本やシナイティック写本が入っていました。これら二つが一致するなら、そして特に他の古いアンシアル写本によっても支持されるなら、決定的なものと見なしました。しかし彼らは、ある人が言うようにバチカン写本に盲従していたわけではありません。なぜなら、彼らはすべての要素を検討することによって、西方写本などのように書き込みや解釈が沢山加えられた写本にもないような細かな改ざんが中間写本の中にも度々はいり込んでいることを見出したからです。それでグッドスピード博士は、ウェストコットとホートがバチカン写本から離れた箇所は福音書の中だけでも七百あると述べています。

 ウエストコットとホートが編集した聖書原本は、世界中の原典批評家によって認められ、八十年後の今日でもなお標準原本とされています。たしかにこれは「画期的な仕事であり」、「新約聖書原本批判上、かつてなされた最大の貢献であり」、「問題に対する取組み方とその驚くべき正確さという点では」、他のいかなるものをもしのいでいます。自作の「米語訳[:アメリカ訳]聖書」の序文の中で、グッドスピードは次のように書いています。「私は、今日認められているウエストコット・ホート原本に忠実に従った。この原本が、ティンデール訳から欽定訳にいたるまでの初期の英訳聖書のもとになった誤りの多いいくつかの原本に比べ、はるかにすぐれたものであることはすべての学者が認めるところである」。

 前述の事柄を考えれば、新世界訳聖書翻訳委員会が、ウエストコット・ホート本を採用し、二、三世紀以前の標準本を選ばなかった理由が明瞭になるでしょう。しかしここに残る一つの疑問は、古い原本より新しい原本の方に、付加ではなく省略があるのはなぜかということです。

 一般に予期されることがらとは逆に、写本家は改校したり注釈したりして、語句を省くよりつけ加える傾向があります。それで、最も信頼できる原本は、同時に最も引きしまっており、もっとも集約されたかたちをとっていると言えます。標準本とバチカン写本との相違点のうち、二、八七七回までが後世における附加でした。当然のことながら、はじめ標準本になれた人々にとって、これらの部分は省略されているかのような感じがするでしょう。

 結論として次の事を銘記して下さい。奇跡的な手段を講じて、聖書原著者の書いたものをそのまま後世に保存すること、あるいは、写本の際の誤りを一切防ぐということはありませんでしたが、そのような手段は用いられませんでした。むしろ、御旨に従って事の成行きを導かれ、比較的少数の例外を除いては、原本相互の間に多少の誤差があっても、そのほとんどは単に字のつづり方の相違とか語順の変化、同意語の使用など、取るに足りない誤りにとゞめられました。

 たしかに前述の事実は、クリスチャン・ギリシャ語聖書が真実なものであり、正確に受けつがれて来たということに対する私たちの信念を一層強めます。ケンヨン[:ケニヨン]教授の言葉を借りれば、たしかに聖書は、「最初に書かれた時そのままの姿で私たちのところまで伝わって来」ました。特にこのことはクリスチャンギリシャ語聖書の新世界訳の原本となったウエストコット・ホート本についてあてはまります。